小貫地区の即身仏『弘智法印宥貞』について

今年の初めに地域おこし協力隊として着任してから、幾度となく訪れているのが、金久山貫秀寺の薬師堂に祀られている、「弘智法印宥貞」即身仏です。私が小学生の頃、町内から数人の仲間と一緒に遠征して、「小貫のミイラ様」を見に行った覚えがあります。

見たといってもお堂の隙間から、恐る恐る覘いた程度で、とっても怖かった記憶がありました。年齢を重ねた現在、ミイラのお顔を改めてよく拝見すると、すごく穏やかで、微笑んでいるのかとさえ思えるチャーミングさです。この穏やかな表情を、できるだけ多くの人に見ていただき、穏やかな優しい気持ちになってほしいなと思っています。

この貫秀寺にミイラが安置されるようになったには、大正年間からで、それ以前は、貫秀寺から300mほど離れた、東永山観音寺というお寺で保存されていました。明治41年(1908)に小貫集落の大火があり、その時観音寺も焼けてしまい、再建されずに廃寺となってしましました。

そこで、近くにあった貫秀寺が即身仏を引き取り、大正14年(1925)に小堂を建立し修めたといわれています。平成3年(1991)10月に浅川町の文化財として,権大僧都宥貞法印ミイラに付随する、石棺・木棺・入定由来書が指定されました。現在は、小貫地区の「小貫即身仏保存会」が管理・案内対応をしています。

山門を入って真っ直ぐ進むと

即身仏が安置されている、薬師堂です。

入り口の戸を開けると、

左側に、石棺の中に入っていた木棺、次に近くで産する福貴作石を使用した、高さ1メートルほど六角形の内部を丸くくりぬいた石棺。そして一枚石の蓋の上に乗った薬師如来の石像があります。つまり、宥貞さんは薬師如来の石像の下で入定したということになります。

中央カーテンを開けると、金と黒で装飾された厨子の中に納められている『弘智法印宥貞』の即身仏が現れます。

右に、昔使われていた小さな厨子、下に二ヵ所横棒が入る穴が開いており、移動をする場合、お神輿のように担いで移動していました。その隣には、宥貞さんの略歴と入定由来書があります。略歴前の赤いボタンを押すと、男性の耳障りの良いナレーションで宥貞さんの一生を聞くことができます。

そして最後、帰られる前に、ちょっと天井を見上げてみてください。美しい天井絵が拝めます。

2019年11月に国立科学博物館で行われていた『特別展ミイラ「永遠の命」を求めて』と、その後の巡回展(熊本・新潟・富山・福岡・大阪)で2021年の9月末までの長期間、南米・エジプト・ヨーロッパ・オセアニアのミイラとともに日本全国で展示されました。現在は小貫の地でゆっくりと過ごされています。

それからもう一つ、薬師堂に隣接している貫秀寺の墓地の中に、鈴木家のお墓があり、その石柵が福貴作に工房を構えていた天才石工「小松寅吉」の作によるものです。興味のある方は、ぜひこちらもご覧ください。

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